子供の頃、夏になると叔母の日本画を見るために銀座のデパートに行った。叔母はある有名な美人画の先生に弟子入りのような感じでついていて、デパートに行くとその先生にも会ってあいさつした。

私にとって、先生は私や母のことを美人だとか、将来モデルになってほしいとか言ってくるただのすけべな爺さんで、その爺さんの描く美人画も、日本画のことが全くわからないことを差し引いても決して魅力的には映らなかった。その点、叔母は植物や生き物の絵が上手で、ジジイの絵よりよっぽどうまいのに、といつも思っていた。
門下には叔母の姉弟子のようなおばさんもいて、子供の頃の私の印象では、彼女はすけべな爺さんのやり方を完全に内面化していて、叔母とは全然合わない怖い存在だった。しかし、叔母は日本画を学んでやっていこうと思う以上は、彼らの中で生きていかなければならなかったのだ。

叔母の家を片付けていたらジジイの画集が出てきて、裏を見るとジジイの地元には彼の小さな美術館が存在しているようだった。
あんな人が地元では美術館が立つほど持ち上げられている権威なのだ。まったく絶望的な情報である。

今日、久しぶりに、どうして高校の単位を取り直そうと思ったのか尋ねられて、一瞬固まってしまった。
昨年叔母が自殺して、自分に何もできなかったのは、あらゆる面においての知識不足、応用力不足、つまり自分がバカだから、叔母の世界を少しも良くすることができなかったと感じたからだとは言えなかった。
大体、私が高校卒業資格を得たところで、すでに止まってしまった叔母の世界は変わらないし、これから誰かの世界を良くできるかどうかもわからない。

だいぶ意訳して、コロナ禍で色々止まってしまって、高校の単位を取り直すとしたら、今が最後のタイミングだろうなと思ったのだと皆に説明していて、それは決して嘘ではない。
私はせめて私の世界を、もう少しだけほの明るく見えるようにしたいだけなのだ。たったそれだけ。
2022/08/24(水) 記事URL
文章を書くことは好きで、あてどない物語も書く。でも、叔母が死んでからは、書いていると時々、自分の両手首から先がいきなりハンマーでぺちゃんこに潰されてしまったような気持ちになることがある。
書きたいことがないわけではないけれど、手がぐちゃグチャだし、痛くてもう書ける気がしない。妄想の中ではそうだ。

実際はちまちま書き続ける。書いては消し、消しては書く。
自分が本当に言いたいことを探しているみたいだ。でもどれも最後には、「こんなことは別に言いたくない」「こんなの本当はどうでもいい」と思ってしまう。

2022/08/17(水) 記事URL
出かける用事があると、ついでにと雑事の予定を詰め込んでしまう。その結果、歯医者には七分遅刻して、歯医者のあるビルのエスカレーターに乗る直前に歯医者から電話がかかってきた。

被せ物が取れてしまった歯にわずかに虫歯ができていたのでそれを削り取ってもらう。被せ物が小さくて、歯との間に隙ができてしまったことが虫歯の原因のようで、新しいのはもっと大きくすっぽりと覆うようなものがいいそうだ。
取れた被せ物がいつ頃作ったものだか聞かれたが思い出せなかった。十年は経っていないと思うけれど、というくらいは前だ。

私は歯医者で唯一、口を開けたままにしておくつっかえのような器具だけは使うのを断る。強制的に開けたままになるのが怖い。ずっと大きく開けておくと唇の端が切れるし、顎が痛くなる。まるで拷問みたいだと思う。
それなら自ら口を大きく開けたまま懸命に耐えるほうがいい。

削ったあとを埋めてもらって、次回、新しい被せ物を作る。
神経近くまで削り取ったため、次回までの間に痛くなったら、神経も処置をしなければならないらしい。でも、私は歯の痛みにすごく鈍いので、本当はひどい状態でも気づかないことがほとんどだからとても不安だ。
この場合十中八九痛くないから。

通っている歯医者では治療後、皆が「お疲れ様でした」と声をかけてくるので、三回に一回は私も「お疲れ様でした」と答えてしまうが、患者は「ありがとうございました」が正しい返事だと思う。
2022/08/05(金) 記事URL
心が動くのがめんどうくさいって、生きる態度としてすごく良くないように思えるが、たぶん「めんどうくさい」という言葉の印象が悪いだけで、結局「怖い」と置き換えられると思う。
ただ、「怖い」より少しだけ冷めた感じがあるから、それを加味すると「めんどうくさい」がより適当かなと思って、ずっとそう言っていた。

心が大きく動いたり、つまらないことでモヤモヤ悩む状態に陥ったり、その結果傷つくのがめんどうくさい。または怖い。だから一人でいて、一人でもそれなりに楽しくやっていたわけだ。
みんなに見守られ(心配され)ながら、あるいは関心を失われながら。

それって、側から見るとどうかわからないが、基本的に気にしすぎ、考えすぎの人間にとってはけっこう健やかなことだった。

でも、いつも新しいことをするときにはたくさんいろいろな物を捨てる。
宝物だと思っていたものでもなんでも、別の何かを得るためにはあっさりと捨てられる自分でありたいし、そうでなければ、新しいことがうまくいかないように思える。
だから今度は孤独な安寧を捨てるのかな。

なんでもぜんぶ持って行こうとするのって、ルパン三世が空中に散ったお宝を必死で掻き集めて、どうがんばっても腕から宝石がこぼれ落ちてしまうシーンみたいだ。
人が抱えられる分は決まってるということのイメージ。
2022/08/02(火) 記事URL