コロナ禍で一人家にこもっていた間、私は何度かはっきりと「別に自分の気持ちが他人に伝わらなくてもいい」と思った。
誰かに何かを伝えるために文章を書いていたのに、もうそれらがなくても、自分は小さな部屋とわずかな外界とに存在しているだけの私を「許した」と確信する瞬間があった。

そうするしかなかったのだ。だから、久しぶりに深く人と関わって驚いた。情報量があまりにも多くて混乱した。それでやっと、自分が人を求めていることにも気がついた。しかし、誰でもいいわけではないのが難しいところで、私は人を求めながらも、実際は数年の間、誰とも向き合おうとしてこなかったのだ。
気持ちが揺れたり、不安になったり、考え込んだりすることを「面倒くさい」と一括りにして、自分の生活から遠ざけていた。
気持ちが動くことと創作は直結しているはずだが、去年の私の心の中には叔母の死が半透明の膜のように張り巡らされていて外が薄ぼんやりとしか見えなかった。
「もう何にも作りたくない、こんな気持ちは誰にもわかるまい」という気分は今は落ち着いているが、自分がそういった状態になったということは私の心身に冷たい楔として残っている。



その日は朝から出勤する日だったから、午前七時台には起きて身支度をしていた。すると、不意に電話がかかってきた。スマホの画面を見ると母からで、それだけですごく嫌な予感がした。出ると、細かな会話は忘れてしまったが、叔母が亡くなったという連絡だった。「死んじゃった」という言い回しだったような気がする。飛び降り自殺だった。
叔母は長く患っていて、薬を飲んでいれば調子が良かったが、体調の悪い時はだいぶ不安定だったから、衝撃はあったが驚きはしなかった。ただ、自分がうかうかしていたために、というニュアンスのことがすぐに頭に浮かんだ。
母はこれから叔母の住む県の警察署に遺体の確認をしにいかねばならないと言った。
私は派遣社員で、直接の親族が亡くなった場合以外は忌引が使えない。「叔母が亡くなった」という理由では当日に仕事を休めないのだ。仮病を使うか迷った。あるいは派遣会社の担当者に叔母の死因を話し、遺体を確認に行かねばならないと話せば休ませてくれるとは思ったが、それほど個人的なことを派遣会社の担当者に打ち明ける気が起きず、仕事に行くことにした。
母には仕事が終わったらすぐに連絡すると言って家を出た。マスク生活の最中でよかったと思った。顔を出したままではその日は働けなかっただろう。母を一人で遺体の確認に行かせてしまったことは、今でも申し訳ないと思っている。でも、その時は何が最善か判断がつかなかった。混乱していたのだろう。

その時期のことは、「去年何してた?」と聞かれるとパッと出てこない。何していたっけ、何もしていなかったんじゃないかな。と考えてしばらくすると、「違う、叔母が死んだんだ」と思い出す。
順番は忘れてしまったが、葬儀の準備や叔母の家の片付けや、警察署に出向いたり病院に行ったり、あんなに忙しくしていたのにどうして忘れていたのだろう。でも、その時にはもう、それを口に出せない。この話は確実に他人にネガティブな影響を与えるし、いくら言葉を選んでも、適切な言い方などない。ただ、この話を自分と家族のうちだけのことにしていることに、私は少し限界を感じる。自分と他人の距離が、このままでは以前よりずっと離れていってしまうような気がする。
叔母が死んだ後しばらく、私は本当に、物語なんて何の役にも立たないと感じた。音楽も全然入ってこないし、美術品も全て、自分には関わりのない遠くにあるものに感じた。それまではそれらだけが私の味方であったこともあるのに。
叔母が亡くなったことは昨年から人に知らせていた。仲のいい友達にも話した。でも自死したことは伏せた。恐ろしくて口に出せない滅びの呪文のように喉が詰まって言うことができないのだ。

自分を許し始めるとその分、物語を書こうと思わなくなる。ここ数年、そんなふうに思ってきたが、去年は「意味がないから書くのをやめよう」と思った。
私は叔母の苦しみの一端を、それを解くヒントを握っていた。それは自分もまた精神的に病んだ時期を経てきたからだ。今だって、決して心が丈夫な方ではない。それなのに、叔母と効果的な関わりが持てなかった。自分の生活に夢中だった。自分の書くものを叔母はまめに読んでくれていたが、私は叔母のような人物を描いたことはない。私は叔母のような人を描けない。

私が描くのはもっぱら、十代・二十代で、容姿に恵まれ、苦しみ悩み、成長する姿のために準備された過去のトラウマやコンプレックスを抱え、これから何にでもなれる未来に向かっていくキャラクターたちだ。彼らは叔母の死を前にした私に何もすることができない。若い役立たずでしかない。私の失った過去ですらない。
ただ私が作った、非現実の存在として、やはりどこか遠くにいる。

私は結局、思うように光れない人を描こうとしてきたけれど、できていなかったと思った。みんな眩いばかりに単純に光り輝いて、取ってつけた暗い影などちょっと照らせば掻き消えてしまうような主役の人生を送っている。
叔母の死が糧になる時が来るとは思わない。辛いことは力にもバネにもならない。ただ悲しいだけだ。悲しみとはただそこにあって、それが静かに冷めていくまで付き合っていくしかない。
2022/11/16(水) 記事URL
寒い季節にはいつも間違える。
「寒い」と全く思わない状態にしないといけないのだ。そうしないと風邪を引いてしまう。
誰もいない部屋の中で「少しだけ寒いな」と思いながら一日過ごして、案の定、翌朝に少し鼻を啜っていたりする。それで気がつくのだ、昨日少し寒いと思っていたなと。それを消さなければいけないのだ。全く思わないように。

歳を取ってきたから、以前よりはそれができるようになったと思う。家の中でもどんどん着込んで、乾燥したらすぐに何かを顔にベタベタと塗って。
生きるのはずっと、全然悲しい。
実家にいた頃のこたつ生活は暖かかったけど戻りたくはない。
2022/11/02(水) 記事URL
私だってこれだけ長く生きていれば、内罰的な自分をピアスの穴として控えめに表現することだってできるようになるのだ。クリアな石のついた医療用のピアスは思ったよりずっとかわいい。
あっという間に耳たぶに新しい穴が開いて、うずうず、ずきずきとした痛みを携えて電車に乗るのは楽しかったが、その小さな穴から自分の不安が噴出するような気がした。

誰かと暮らすことはこれまでの生活に相手が足されるのではなくて、根本的に生活を作り直すみたいな話だ。
私はたとえば、家に帰れば会えるのだからという合理に組み込まれるのではないかとか、そういうありがちなことを心配している。ありがちなことは起こりがちなことだから、漠然とした「うまくいかないかも」みたいな心配よりも悩む価値がある。

耳たぶの小さな穴から溢れ、滴っていく不安。そのイメージだけでも、少しは本来の自分の姿に近づいたような気がする。
2022/10/25(火) 記事URL
去年か一昨年のことだったと思う。あまりにも気が滅入るし、マスク生活が続いて日々の化粧がつまらなく感じていたので、ネットで見かけたかわいいチークを買うことにした。
しかし、私は大体自分が似合うであろう色味の範囲から選ぶので、その時もマットなベージュピンクみたいな当たり障りのない色を買おうと伊勢丹ミラーに行った。

希望の色をタッチアップしてもらい、想像通りだけどまあかわいい、と思っていたら、美容部員さんが「こちらいかがですか、似合いそう」とパールベージュゴールドみたいな色をお薦めしてくれた。
しかし、結構黄色みも感じるゴールドだし、ラメ感が強そうで個人的には自分に似合わなさそうな色味。
でも、美容部員さんが絶対いいと思うというのでタッチアップしてもらった。
ゴールドはゴールドだけど、肌に乗せると黄色みより血色感が出るし、ラメが頬の艶みたいに見えてかわいいし大人っぽい。自分では絶対に選ばない色だけど、案外浮いていない。
結局、その場では決断できずに帰ったのだが、後日それを買った。

私にとって、美容部員さんがそんなふうに提案してくれたことも、それをいいと思って買ったのも初めてのことだった。
なんとなく停滞していた時期に自分では見つけられないような目新しい化粧品を薦めてくれていまだにちょっと感謝している。
その後、似合わないと思っていたベージュや、思い切ったラメ感やパール感のある化粧品もどんどん選ぶようになった。
2022/10/23(日) 記事URL
宿の明かりも見えなくなると、木々に囲まれた道路は真っ暗になった。少しだけ欠けた月だけがぽっかりと明るかったが、頼るにはあまりにも空高く遠くて、湖に近づくのが怖かった。
手を繋いで歩いていると、「人間って変わってるな」という思いがまた浮かんできた。
人間のやることなすことぜんぶ、いつもすごく変わっている。もちろん自分を含めて。
水辺で、ここで人生が終わりだったらとってもきれいだけど、実際はもっと必死に生きて、意地汚く終わっていくだろうと思うと何となくホッとした。
2022/10/13(木) 記事URL